【時計じかけのオレンジ】独特な近未来観がたまらない
え?
なにその衣装?
こんなオブジェ、置いていいのか……
超名作映画、スタンリー・キューブリック監督の「時計じかけのオレンジ」を観ました。
衝撃的な場面の数々にドン引く人もいるようですが、私は楽しめました。
劇中で行われる犯罪行為の数々は許されざるものでしたが、奇抜な世界観には思わず爆笑してしまいました。シリアスさと面白さのバランスが丁度よかったです。
この時代に考えられていた奇抜な近未来観、好きなんですよね。
あらすじ
舞台は近未来のロンドン。
主人公のアレックスは、「ドルーグ」と呼ばれる非行少年グループのリーダーであった。一般市民に暴力をふるい、目先の欲求を満たすだけの日々を満喫していた。
ある日、アレックスはグループの方向性をめぐってメンバーともめてしまう。その場では3人を無理やり服従させたものの、その夜強盗に入った際に裏切られ、警察に逮捕されてしまった。
アレックスは日々繰り返してきた悪行の結果、14年の刑期が課せられることになった。
アレックスは今後どうなってしまうのか。また、刑務所の中で囁かれる最新の「ルドヴィコ療法」とは何なのか。
感想(ネタバレなし)
アレックス達ドルーグのメンバーは「殴る」ことを「トルチョック」、「素晴らしい」ことを「ホラーショー」と言い換えるなど、独特の言い回しをします。これはロシア語をはじめとした海外の言葉をもじった「ナッドサット語」という造語で、作中では若者言葉のような立ち位置となっています。最初こそ戸惑いますが、不思議なもので聞いていると次第に癖になってきます。
ナッドサット語についてはこちらで詳しく解説されています ↓↓↓
【台詞・言葉】『時計じかけのオレンジ』に登場したナッドサット言葉をまとめた「ナッドサット言葉事典」
この作品の特徴として、奇抜な世界観があります。
壁が色つきの鏡のようになっていたり、どぎつい色の市松模様だったりします。この時代には未来にこういうデザインが流行ると考えられていたのでしょうか。とはいえ、これがいいアクセントを生んでいることは確かです。
どこかでこのデザインを見たことがあると思い考えを巡らせたところ、「小学生の図工の時に使ったキラキラした紙」であることに気が付きました。
これはいらすとやから頂きました。ホログラムシートというそうです。
いらすとやは本当に何でもありますね。
また、この世界には「性」に関した表現が多く出てきます。
例えば、ドルーグの行きつけの「コロヴァ・ミルク・バー」には、壁に全裸の女性をかたどったミルクサーバーが、また、床にはブリッジをしている全裸の女性のテーブルが置かれています。
あまりのイカれたデザインに思わず爆笑してしまいました。
他にも、強盗に入った家には滅茶苦茶大きな男性器のオブジェクトがさも当たり前かのように置いてあります。そして壁一面には女性の裸体の絵画。
あまりに大胆すぎるインテリアの数々に「近未来の表現が独特だな~」と爆笑しつつも、いくら時が移ろったとしても人間の根本は変わらないのだなぁと考えていました。
あ!
一番の爆笑ポイントは、アレックスがレコード店でナンパした2人の女性をベットに連れ込むところでした。服を脱がせいちゃつき、服を着たらまた脱がせいちゃつき……繰り返される「いちゃつきループ」が滑稽でたまりませんでした。
割としっかり描かれる性描写が大丈夫な人は観ていただきたいですね。
感想(ネタバレあり)
ルドヴィコ療法を受け出所したアレックスは、今まで暴力を振るってきた人々から報復を受けることになりました。これまでのアレックスの行動は許されざるものですが、それにしてもやりすぎではないかという位執拗な攻撃を受けます。
罪を犯した人は、法が定めた程度に応じて適切な刑罰を受けることになります。
しかし、一般人が独自の裁量で悪人を罰した場合、その罰は本来その人が受けるべき刑罰の量を超すことがあります。
これは、その人の攻撃で犠牲者がそれだけ傷ついたということでもあるかもしれません。軽い気持ちで行われたかもしれない暴力が、その人の今後の人生を壊してしまうということもあります。
一方で人間は「この人は悪だ」と判断した時、自分の負った傷を超えてその人を必要以上に攻撃してしまうこともよくあります。
このように、人を罰する際にその人の罪を適切に裁量するのは難しいものです。そのために法という明確なルールが定まっているのです。
このことが示すように、人間は時に残忍です。暴力は、使いようによっては自信を守ることに使えます。自分の欲求を満たすためだけに暴力をふるうか、復讐のために暴力をふるうかで大きく違いはあるものの、暴力それ自身を制限すべきでないということです。
実際、ルドヴィコ療法を受けたアレックスは、暴力的・性的な行動すべてに拒絶反応を示すようになったことにより、他人から暴行を受けても自衛のための抵抗すらできなくなってしまいました。暴力そのものを制限することで、人間が生きるのに必要な最低限の力すら行使できなくなっているようでした。
残虐性を排除し善良な人間を作ろうとした一方で、自衛の手段すらとることができなくなったアレックスは、仕組まれたプログラムによって動く機械のようになってしまいました。「人間」を作ろうとして「機械」が出来上がるとはなんとも皮肉が効いています。
劇中で牧師が放った、
「善は選択することで善となる。人間が選択できなくなった時、その人間は”人間ではなくなる”」
というセリフが思い出されます。
人間から「自分で物事を判断する」能力を取り除くべきではないのです。
最後にアレックスは苦しみに耐えかねて飛び降り自殺をしてしまいます。結局それは未遂で終わるのですが、昏睡状態になってしまいます。目を覚ますとアレックスはルドヴィコ療法の兆候がなくなっていることに気づきます。昏睡状態の時に「誰かに脳をいじられていたみたいだった」というアレックスの発言から考えるに、昏睡状態の時に医師が脳をいじったのではないかと思います。
これによりアレックスは「完全に治った」わけです。人間性を取り戻せてよかったですね。今後はその人間性を暴力に訴えることや性の快楽にささげるのではなく、まっとうな人生を送ることにささげてほしいと切に願います。
タイトルの「時計じかけのオレンジ」の意味に関しては私は明確な考察ができませんでした。そもそもオレンジ自体出てきませんし、オレンジで比喩されるようなものに気づけなかったのです。
調べてみるとロンドン東部の労働者階級のスラングから解釈するものや、マレーシアの言語で人間のことをorangというということから解釈する考えなどがあるようでした。
こういう海外の言葉遊びに気づける人は教養もあり凄いと思います。理解できるようになったら面白いだろうな~
以上「時計じかけのオレンジ」、最近の中でもかなり好みの映画でした。近いうちにキューブリック監督の「2001年宇宙の旅」も観ようと思います。
奇妙な近未来観でいえば、「未来世紀ブラジル」も好きなのでいつか記事にできればと思います。
本日はここまで。
よかったらまた読みに来てください。